秋篠宮妃紀子さまの父、川嶋辰彦さんがお亡くなりになり、若かりし頃の秋篠宮妃紀子さまとお父様の川島辰彦さんの映像があちらこちらの番組で見る事が増えました。
今さらですが、紀子様の若い頃、本当に可愛いかったですね。
秋篠宮さまが惚れ込んだのも納得です。
以前は皇室には、今ほど興味がなかったので、あまり気にしていなかったのですが、紀子様のかわいらしさに今さら気がつきました。
しかも、控えめ、清楚、はにかむお姿が可愛い。
すべてを、結婚会見の【激オコ】眞子さんと比べてしまいます。
とても紀子様の娘とは、思えない眞子さん。
お顔もあまり眞子さんは紀子さまににていないですよね。
今日は、紀子様に興味が湧いたので、紀子様と秋篠宮様の出会いと結婚までを調べてみました。
目次
秋篠宮妃紀子さまから、【激オコ】眞子さんが生まれるまで
紀子様の生い立ち
1966年9月11日に川嶋辰彦、和代夫妻の長女として静岡県でお生まれになりました。
紀子様が生まれた時は、父親の辰彦さんはまだ東京大学大学院の学生でした。
その時、すでに辰彦さんは、アメリカのペンシルバニア大学大学院に留学することが決まっていた為、紀子様は生まれてすぐフィラデルフィアに引っ越しました。
その後、紀子さまは6歳まで現地の幼稚園と小学校に通っていましたが、父親が日本で就職することとなり、小学校1年生の時に日本に帰国しました。
静岡市立中田小学校に編入からはじまり、その後も両親の引越しに伴って、新宿区立早稲田小学校、豊島区立目白小学校と転校を繰り返し、4年生からは父親の就職先でもある学習院初等科に編入しました。
しかし、その後も父親の仕事の為、転校が続きました。
父親の辰彦さんがオーストリアの研究所に赴任することとなり、再びオーストリアに引っ越しました。
そうして、2年後に日本に帰国して学習院女子中等科1年に編入するまで、7回も転校しています。
学習院で大学に入学後に、運命の出会いがありました。
秋篠宮さまとの運命の出会い
運命の出会いは、秋篠宮さまが大学2年時の1985年4月の出来事です。
大学構内にあった書店の店主から
「こちら、川嶋教授のお嬢さまです」
と紹介されたのが川嶋辰彦学習院大学教授の長女で、1学年下の紀子さまだったのです。
紀子様は、大学時代から「かわいい」と評判だったようです。
その後、秋篠宮様がご自身が結成した「自然文化研究会」というサークルに紀子様を勧誘し、交際がスタートしました。
その頃の秋篠宮さまは、次男という事もあって、たばこを吸ったりお酒を飲みに出かけたりなど、かなり自由奔放だったようです。
秋篠宮さまは、愛車のフォルクスワーゲンで紀子様を迎えに行き、三浦半島をドライブしたりしてたそうです。
運命の出会いの1年後の1986年6月、紀子さまが20歳の時、サークル仲間とスナックで飲んだ帰りの信号待ちで、
「私と一緒になってくれませんか?」
と秋篠宮さまからプロポーズされたようです。
昔のトレンディドラマのようですね。
紀子さまは、
「よく考えさせていただけませんか?」
と一度保留にしたのち快諾し、1989年9月には婚約内定が発表されることとなったようです。
その頃の秋篠宮さまと紀子様のお写真は、本当にお幸せそうなものばかりですね。
しかし、1989年といえば、1月に昭和天皇が崩御され世の中全体が喪中ムードだった為、宮内庁の一部からは、
「この時期の婚約はあり得ない」
「皇太子さまより先の結婚は好ましくない」
などの反対意見もあったそうです。
3LDKのプリンセス
紀子様の父親の川島辰彦さんが学習院大学の教授だったことから、お住まいはテレビもない学習院大学の3LDKの教員宿舎、家賃は3万3000円だったそうです。
当時の紀子様は「3LDKのプリンセス」と言われていたそうです。
「身分が違うのではないか?」
という声もありましたが、大多数の国民は祝福ムードで空前の「紀子さまブーム」が起こっていたそうです。
そして、おふたりは1990年6月にご成婚されました。
1991年10月23日に【激オコ】眞子さんが誕生
命名されたのは秋篠宮さまでした。
眞子さまの『眞』という字には【自然のまま】【ありのまま】という意味が込められているそうです。
名前の意味の通りに育ってしまったようですね。
当時、秋篠宮さまは、親しい人にこんな言葉をかけられたそうです。
「女の子は本当にかわいいですね。大きくなってもお嫁には行かせたくないですね」
ところが、国民に喧嘩売って、無職の紐男と駆け落ち婚とは、
人生なかなか、思ったようにはいきませんね。
まとめ
今日は、なぜ、あの控えめで可憐な紀子さまから、眞子さんのような子が出来てしまったのかが、不思議になり調べてみたのですが、どうやら、眞子さんは、秋篠宮様の自由奔放な部分が似てしまったのかも知れないですね。
多分、秋篠宮さまの子供に対するしつけの部分でも、ある程度、自由にさせて育ててきたのでしょう。
結果、眞子さんのような国民に物申すみたいな娘が出来上がってしまったのですね、きっと。
なんとなく納得が出来ました。